そもそもの発端は、舞踏会でのささやかの揉め事からだった。ダーヴァビル伯爵が酔いの勢いもあったか自分の功績を饒舌したことだった。さももう事実上トゥールーズ侯と同格など口を滑らしてしまったから大変だ、舞踏会に来ている、紳士や淑女達が一瞬氷ついたようになったがそれを隠すようにみな会話を続け始めた。しかしこのことは、運悪くトゥールーズ侯の耳に届いてしまったようだ。両家はここから最悪のシナリオと進んで行く

方や、両家の子息達は、そんな喧騒をうらに恋の華を咲かせていた。ダーヴァビル家の子息アーヴィン、トゥールーズ家の愛娘ロザリィは、お互い気になる存在であったがなかなかチャンスにめぐりあえない。幾度かの舞踏会で顔を合わせることはあったが両家の険悪なムードの中それどころではなかった
そんな折、ふとしたきっかけで二人はめぐり合うことになる。実は、こんな話が着いてまわる。ある時教会で祈りを捧げていたロザリィは背後に気配を感じ振り返るとそこには一人の男性が立っていた。アーヴィンその本人だ。アーヴィンもキョトンしてことの状況の把握に苦しんでいる様子。そう実はバレンシア神父が二人の身を案じてちょっとした引き合わせを仕組んだ次第なのだ

つづく....

 
 
 


 

episode I - 'The cruellest thing in the world' 「世界でもっとも残酷なこと」
episode II - 'Missing Letter' 「おくられなかった手紙」
episode III - 'Love's Labours Lost' 「恋の骨折り損」
episode IV - 'Honor buried in the dark'  「失われた名誉」

※現在決定されているエピソード進行状況により内容が記載されていきます

 

 

 
   

アンリ・ド・トゥールーズ侯爵
トゥールーズ侯爵夫人
アーヴィン
クレメント・ダーヴァビルズ伯爵
ダーヴァビルズ伯爵夫人
ロザリィ
バレンシア教区司祭

 

 

 
 


 


アンシャン=レジームな時代(Ancien Regime)


「旧制度」もしくは「旧体制」の意味。もともとフランス史の用語であって,中世の封建制がその政治的機能を失い,官僚制にもとづく絶対王政が成立する16世紀ごろから,フランス革命によって絶対王政が廃棄されるまでの社会体制全般をさす。その意味で,アンシャン=レジームと絶対主義とは表裏一体の関係にあったといえる。しかし今日の歴史家は,アンシャン=レジームの概念をもっと広く用いる。フランスのみならず,ほかのヨーロッパ諸国に関しても,自由主義的な近代市民社会以前の,いわば前近代的ないし半封建的な社会体制一般をこのことばで呼ぶことが多い。その場合には,アンシャン=レジームは「身分制社会」とほとんど同じ意味をもつこととなる。

アッシニア(Assignat)

1789年12月に初めて発行された国庫債券。アッシニアとは「支払いに当てる」と言う意味。当初は紙幣として流通させるつもりはなく、没収した教会財産を国有化し、その国有財産の引換券として、引き換えが済めば廃棄される予定だった。最初の発行は4億リーヴル、翌年から大増発した。

第三身分に向けられた寓意画


社会階級


第一身分:「僧侶」(14万人)
第二身分:「貴族」(40万人)
第三身分:「平民」は大きく商工業を営む市民(450万人)と農民(2000万人)
人口の1.5%にしか満たない特権階級が全土の40%の土地を所有していた


経済危機

戦争で国庫は破産寸前でした。またイギリスで起こった産業革命の影響はフランスにもやってきました。大量生産が可能になったイギリスはあらゆる製品をヨーロッパ大陸に輸出し、それがフランスの産業や経済を圧迫し始めた。
ダーバヴィルはこの外交政策の隙間を狙ってより多くの資金を調達できた。


啓蒙思想 サロンとカフェ (Salon et Cafe)

革命前のフランス人の識字率は、男性で50%以下、女性で25%以下くらいでした。当時出回った啓蒙思想的な書物は、それ以外のさまざまな本と共にかなりのベストセラーになりました。この低い識字率ではいくらベストセラーでも、実際に読んだ人は少ないことは確かですが、これらの思想は読まなくてもカフェなどから広がった思想は、人々の間に伝播していき、啓蒙思想は貴族、民衆を問わず大きな流行となりました。

サロンは貴婦人や上級ブルジョワの女性が主宰し、多くの啓蒙思想家を育てましたまたカフェはサロンに入れるのは特定の人だけですが、カフェには安いお金で誰でも入れ、さまざまな噂話を聞いたり、トランプをしたりすることもできました。ここには、ヴォルテールやディドロなどの文士達、やがて革命の指導者となる多くの若者が集いました。




法服貴族 (Noblesse de robe) 

本来貴族の身分とそれに伴う官職は世襲制のものであったが、15世紀後半から国王の任命する官職は売買の対象となり、1604年のポーレット法により、これを制度化した。 この法律は、官職を持つ者は毎年購入価格の60分の1を国王に支払うことと引き換えに、その官職を売買したりあるいは世襲の自由を得ることできるようになり、このようにして高位の官職を得た富裕なブルジョワジーは貴族身分に入り込むようになった。これを法服貴族と言う。



ヴァレンヌ逃亡(Evenement de Varennes)


ずっと後の話であるが1791年6月チュイルリー宮殿に住んでいた国王一家が巻き返しを狙い、国外脱出を図った。
しかし、二日後、もう少しでオーストリア国境というパリの東方200キロにあるヴァレンヌまで着いたとき、宿の主人に見つかる。
それまで市民達は国王一家に寛大だったが、この事件の後、国王不要論が出てくるようになる。


「フランス革命大解剖」より抜粋

 
 
 
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